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薄明さんのフォトブックを買った話

Twitterでしばしばやり取りさせていただいており、noteもフォローさせてもらっている薄明さんが、フォトブックを制作されたので一部購入しました。
何気に、プロアマ・同人商業問わず、生まれて初めて自分で買った「写真集」となりました。

薄明|note主に金沢で自分が気持ちいい写真を撮っています。フィルムカメラがなんだか好きです。 / twitter: @_hakumeinote.com

フォトブックについてのツイートはこちら↓

私は石ころみたいな写真が撮りたい

薄明さんの写真はどれも飾り気が無く、すうっと見る者の内側に染み込んでくるのですが、そういう写真を撮る方が作ったフォトブックに付けたタイトルがこれ。
薄明さんは詩も書も嗜まれる才人ですが、なるほど「石ころ」と来たか…。タイトルからもう唸らされ、引き込まれてしまいました。

「石ころ」とはなんぞや?

僕にはもうすぐ6歳になる息子がいますが、彼は……とても石ころが好きです。

保育園の駐車場で拾った石ころ。
自宅の庭で拾った石ころ。
遊びに行った公園で拾った石ころ…。

どれも何の変哲もない、本当にただの石ころですが、彼にとっては特別な物のようです。
ある時、気に入っていたひとつを手からこぼし、柵の向こう側に転がっていってしまったことがあったんですが……もう泣く泣く。

つまり、薄明さんが目指す写真というのは、多くの人にとっては取るに足らない日常の風景の中にこそ、響く人には響く何かがあり、それを写し撮ったものということなのでしょう。

なるほど石ころじゃねーの

で、実際にページをめくると、これがまた徹底的に「石ころ」なわけです。
なんと言うか、「写真を撮るぞ」と被写体にレンズを向けているはずなのに、そこに作為を感じない。
「いい写真にしたろ!」という力みが無い。

まるで、薄明さんの両目がそのままレンズとセンサーなりフィルムなりになっており、町を歩いていてたまたま目を向けた物を自動的に保存したかのよう。
どれだけカメラという道具を身近に置き続けたらこの境地に至れるのだろうかと、まずそこに空恐ろしさすら感じました。

なんで石ころに惹かれるのか

さてここで翻って、なぜ自分がこの石ころに心惹かれるのか考えてみることにします。

息子があちこちから拾ってきてしまった石ころに対して、僕もうっかり言ってしまうことがあるわけですよ、
「それ…どうすんの?」
と…。

薄明さんの写真も「石ころ」であるならば、同じような感想を抱くのが自然です。
「そんなの撮って…どうするんです?」
だけど、そうはならない。

さらに言えば、僕が趣味で写真を撮る場合も、誰もが息を飲むような絶景や、すっごい可愛くてチャーミングなモデルさんのポートレートを撮りたいとは思わない…やっぱり僕も、道に対して斜めに立っている自販機とか、色が全部抜けちゃった看板とか、消防署の櫓とか、そんなのばっか撮っています。

薄明さんほどの透明感は出せず、作為も消せず、
「これ、Twitterで伸びないかな。伸びたらいいな」
「伸びたらフォロワーさんが1000人とかになっちゃったりして…ふひひ」
と、不純極まりない我欲が滲み出る写真になってしまうことは自覚しつつ、それでもどうやら自分なりに「石ころ」を探したいらしいのです。

それはおそらく…僕が基本的に作為の中で生きているからなのかなーと思います。
僕が従事するシナリオライターという仕事は、作為だけで成り立っていると言ってもいい仕事です。
「ここで見てる人・プレイヤーを泣かしたる!」
「ここがこのキャラクターの可愛さが出るところ!」
「ここはこういう曲と演出を入れてもらって…」
…すべてが作為。

そして、実は感情よりも理論の仕事であり、リサーチの仕事でもあるのです。
「今はこういうのがはやってる」
「今こういうキャラクター出さないともう古くなっちゃうから使っておこう」
「ここでこういう効果を生み出すためには、逆算してここにフックを仕込んでおかないといけない」

もちろん、それが楽しいところ、やり甲斐あるところでもあるのですが……ずーっとやってると、ちょっと疲れるのですよ�� �(笑

だからせめて趣味の写真くらいは、そういう作為も理論もリサーチも捨てて、感情の赴くままに、
「なんかようわからんけど、いいなこれ」
というものを撮りたい……しかし、悲しいかな、仕事で染みついてしまった性ゆえに、中途半端な作為がにじむものを量産しているわけです…。

なんだか鬱陶しい自分語りに脱線してしまいましたが、とにかくそういう心持ちのところに、薄明さんの写真を見ると、
「ああ……こういう写真いいなぁ」
と、無作為の透明感に打たれるのです。同時に、
「なんで俺のはこうならんのだろ?」
「なんか理由があるはずだ…」
…考え始め…ああダメだ、またそうやって作為の泥に沈む沈む…となるわけですが。

最後にトドメを刺すひとことが待っていた

まあそんなことを考えたりしながら、1ページずつ薄明さんの「石ころ」を堪能して、大変な満足の中で本を閉じようとしたところに…事件が待っていました。

巻末、薄明さんのごく短いあとがきがあるのですが、そこに書かれたひとことに僕は打ちのめされました。
「…ここまで見せておいて…そう言っちゃうんですか!?」

それがどんな言葉だったかは……ぜひご自身で確かめていただきたいと思います。(作為!)